企画展 - 2018.11.05

『手繰り寄せる地域鑑賞』 vol.7 夕暮れの呉でひらく傘は、豪雨を守るのか

 

2018年7月12日。広島出張の予定があったぼくは、前日に広島空港に入り、以前より関心のあった呉を訪ねようとした。ところが7月上旬に関西を西日本豪雨が襲い、熊野町や呉市は河川の氾濫や土砂崩れの被害に遭い、呉線は不通に。その日も広島駅行きのシャトルバスは欠便で、ぼくは不安げに走る東広島行きの臨時バスに揺られ、車窓からその荒々しい爪痕に目を奪われていた。

 

再び広島を訪れたのは9月9日。呉線がとうとう復旧したその日、ぼくは再度呉行きを試みていたのだが、この日も大雨の被害に遭い呉は避難勧告が出ていたため、ぼくは予約していた宿をキャンセルし、広島駅周辺で足止め。ようやくにして翌日(この日は快晴だった)、呉行きを実現させた。

 

この日は月曜日。車両には女子高生や中国人の観光客、老婆が乗り、さも疑いもなくあり続けたかのような日常を見ることができた。女の子たちは日常がそこにあることを確かめるかのように、「おはよう」と声を掛け合い、ささやかな話に興じる。ぼくはその姿に胸をなでおろし、呉線に乗れたことを嬉しく思う。そのいっぽうで、道行きの合間には土砂が崩れビニールシートの覆いかぶされた場所や、おそらく土砂に埋もれていたのであろう──土嚢が積み上げられ、土砂から守られている原爆碑もあった。その前を電車が通るときには、揃ってぼくらは固唾を飲み、のっぺりとしたガラスの向こう側にも確かにリアルがあることを知る。

 

広島駅にて。呉線の車両

 

呉は、岬の先、湾になっていて、山に囲まれた洲にできた町と言える。人口約23万人。広島市に比べればこじんまりとして見えるが、広島県では3番目に人工の多い市町村だ。

 

町は、19世紀末に鎮守府(海軍の拠点を指し、ほかには佐世保、舞鶴、横須賀が挙げられる)と制定されたことをきっかけに、突如として歴史に現れる。海軍の基地、戦艦の製造工場として栄え、急成長を遂げた。その活躍や軌跡を資料展示しているのが、駅前の歩道橋を海に向かって歩いて行った突き当たりにある、大和ミュージアムだ。

 

ミュージアムの展示は非常に充実していて、呉の町が軍需を受けて発展していった様子や、戦艦製造の技術が進歩していく様、産業の発展に伴う文化形成のあり方などが、実物資料や映像で丁寧に構成されている。特に1935年に開催された「国防と産業大博覧会」の資料はすさまじく、名称の通り文化と軍事、政治が密接に結合されていることや、それに沸き立つ市民の様子──少なくとも、歓声をあげ参加する様しか資料としては展示されておらず、異を唱えた者がいなかったのか、あるいはいなかったことになっているのかは、たかだか数十年後の今日で不明瞭になっている──に驚愕を覚える。2020年を前にしたいま、これらは示唆的な前例であり、数十年後にどのような歴史の1ページとして残るのか、いまに生きる我々が試されている。行政が国民意識の統一(と統一されたものとしての歴史への記録)を図り、価値観を歪ませていった様は、この産業大博覧会しかり内国勧業博覧会しかり、ほかの博覧会でも多く見ることができ、興味深い。

 

展示の後半では、大日本帝国海軍の誇った戦艦の花形である「大和」を中心に取り上げており、その巨大さ(全長263メートル! 1/10模型が館内にはあるが、それでも十分に大きい)だけでなく、「長門」など前例の日本が誇る技術が集約していることを伝えている(そして戦艦製造の実績は戦後の高度経済成長の礎となっており、航空機製造や高層ビル建築、発電所の建造、精密機器製造などの広い分野に、その技術をつないでいる)。1945年4月に九州南西沖で沈没した大和は、1999年に大規模な潜水調査が行われ、沈没したのちどのように残されているのか、ぼくらは潜水艇のカメラを通して知ることができる。大破し、藻に覆われた菊の紋章。多くの労働と技術を結集し海軍の期待を背負った戦艦が、その姿で暗い海底に眠っている事実は、「愛国心」という国境を超えて、人間の業と悲哀を感じさせ、胸に押し寄せる。

 

大和ミュージアム併設のカフェレストランで食べられる、海軍カレー。海軍では、洋上でも曜日感覚を維持するため、金曜日にカレーを食べる

 

艦船めぐりのクルーズ。海軍OBの解説が饒舌

 

いっぽう、1階の企画展示室では戦艦「長門」が特集されている。常設展示室に比べ小ぶりながらその内容は相対的で、戦艦を巡る戦時中の日本を立体的に理解しやすくしてくれる。長門は現在でこそ知名度で大和に劣るが、設計から製造までの全行程を日本独自の技術で行なった初めての戦艦で、「ビッグセブン」と呼ばれる41センチ砲の搭載が認められた艦のひとつとして、つまり「戦争の抑止力」として、日本はもちろん列強各国に知られていた。その力を示すため、あるいは海軍に割かれる予算の正当性を訴えるため、積極的に戦艦の情報が広報(そのなかには、もちろん当時各地で行われていた博覧会も含まれる)されていたと言うのだから、驚きだ(なお、いっぽうの大和は、計画段階から秘密裏に進められ、製造に関わった者も含めて、その全容を知るのはごく少数に限られた)。グリコのキャラメルの景品に戦艦の模型が用意され、関東大震災では救援活動に勤しんだ。技術力を象徴する、日本の誇れる存在だったと言える。

 

だが、1936年にワシントン海軍軍縮条約が失効されると、長門は「戦艦」という免れ得ない本来の役割へと突き進む。1941年12月2日、長門から「新高山登レ 一二〇八」の電報が発信され、太平洋戦争がはじまる。最終決戦のための戦力として温存された長門は、初の実戦をミッドウェー海戦で迎える。その後破壊されることなく終戦となったが、アメリカに接収され、ビキニ諸島での核爆弾の標的艦に当てがわられ、その役目を静かに終えた。長門の命運は、現在における日米の関係にそのまま繋がる。「戦争の抑止力」として戦艦は核に姿を変え、日本はいま、核の傘のなかで身を震わせている。だが、突如として降る豪雨を、ぼくらは果たして傘だけで守ることができるだろうか。レインコートを着て土嚢を積む、という大地の努力(国防力の強化)だけでなく、──vol.7でふれた「ネオ・コスモグラフィア」を思い出せば──天空を見上げ、続いている異常気象の原因にこそ考えを巡らせなければならない。

 

抑止力だったはずのものが、やがて状況の変化とともに役割を変え、意味を変え、そして姿を変える。アンコントローラブルな何かとして、牙を剥き始める。そのことを大和ミュージアムの展示は、自戒として痛切に語りかけてくる。

 

このあたりで、大和を筆頭に多くの戦艦が造船された

 

呉を歩き、広島平和記念館に赴き、展示を鑑賞している外国人とすれ違いながら、思い戸惑う。彼らにとって、核爆弾は正義なのだろうか。ここで”彼ら”の指す言葉は、アメリカ人に限らない。アメリカ人はロシマ・ナガサキにおいて加害者かもしれないが、台湾に住む人やマレーシア人にとっては日本人が加害者だ。”国を守る”という志は、ときに”他者を攻める”ということと同義になり得、”自国の平和”は”他国の排除”によって成り立つかもしれない。ぼくの大切な人を守ることが、他者を傷つけることになるかもしれない。

 

正しいと信じることを実行するとき、人は盲目に陥りやすい。こちらとあちらを行き来するような、風通しのいい他我と視座を想像することがぼくらには必要だ。

 

島国の日本に対しヨーロッパは、国と国の境が曖昧で、地続きにその文化がグラデーションをなしている。先日、スウェーデンとフランスに行く機会があり、日本にはない風通しのよさを感じたのだが、その話は、また別の機会にしたいと思う。

 

呉のゆるキャラ。ミュージアムで重くなった気持ちを図らずも?軽くしてくれる

 

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