企画展 - 2018.07.26

『手繰り寄せる地域鑑賞』 vol.4 断絶しないオーストロネシア・アイランド、台湾 後編

台湾・地層・フィールドワーク

東京での仕事に一区切りつけ、羽田空港から台北の松山空港に向かう。およそ3時間のフライトは、去年何度も沖縄に通った身からすると、国内線の延長線上にある。ひと仕事、デスクワークをするのにちょうどよい時間だ。これは国内線ではないぞ、と再認識させられるのは、機内食が出るときだ。ややお腹はふくれていたし、台北で知人と夕食を食べる予定もあったので、やれやれと思いながら缶ビールで流し込んだ。シートベルト着用のサインがつくと、やがて飛行機の窓から台北の街が見えてきた。ぽつぽつと無表情だった街灯は、滑走路が近づくに連れ熱を帯び、表情を持ち、やがて混沌としたネオンサインに姿を変えていった。そしてその只中に吸い込まれるように、飛行機は着陸した。


飛行機を出ると、むわっとした湿気が襲った。軽量プラスチックのスーツケースが途端に湿度を帯びる。ホテルに向かう電車に乗り(危うくペットボトルをバッグから出しそうになったが、台湾では電車内で飲み物を飲んではいけないらしい)、忠孝復興駅を降りる。松山空港は台北の中心からすぐ近くにあるので(便利とは思いつつ騒音問題などが心配にはなるが)、20分ほどで着くことができる。地下鉄から階段を上がると大きなそごうが交差点にそびえ立っており、台湾に着いたと思ったら、日本らしいむしろ懐かしささえ感じるロゴマークをこの地で見て面食らう。子どもの頃、そごうの正面入口にある時計仕掛けが好きだった。長針が12を指すときに、円盤の数字から民族衣装に身を包んだ人形が交互に出てきて、くるくると踊る。現れては、隠れる。隠れては、現れる。その非実利的で幻想的な振る舞いは、日常からひょっこりと顔を出した異空間だったが、その記憶とそごうと、地下鉄から地上に出た自分に、妙なシンクロを感じた。


台湾の中心街である台北は、東京の様々な表情を内包している。ビルの間を這う「快速道路」は首都高を彷彿とさせる。等間隔で並ぶオレンジ色の街灯に当たるくたびれた木々と、ジメジメとした高架下に雑然と駐車されるスクーター。そこをぽつぽつと歩く若い男女。イヤホンで音楽を聞きながら自転車で駆ける少年。都会が照らした先の夜街は特段見たいものでも見せたいものでもなく、あぶり出されたものたちはバツが悪そうにチラとこちらを見てはうつむき、先を急ぐ。演者も観客も、みなが「都会」という舞台劇を演じれば、そこに見る/見られるの境界はなくなり、現実と劇はないまぜになる。「私はいま演じているのか?」とチラチラと横目で疑惑を持ち合うような、そんな疲労感が東京の街と台北は似ている。交差点をふたつ抜けると飲み屋街があり、24時頃だと言うのにたくさんの若者が楽しげに杯を交わしていた。そのうちの一軒にぼくも入り、知人と旧交を温めた。

 

日本時代の建築を再活用したアイスクリーム屋・宮原眼科

 

翌日、台北駅から高速鉄道(日本で言う新幹線だ)に乗って台中に行った。乗りたい時間帯に空席がなく、止むを得ずグリーン席を取ったら水や新聞が無料で配られた。ぼくは水だけもらって、1時間ほどの車窓を楽しんだ。


台中は、都市機能を持った台北とはまた異なり、新興開発地としての趣きと旧都の顔を混在させている。そのことは台北駅から高速鉄道が伸びる「高鉄台中駅」と、日本時代だった1905年に開業した「台中駅」の両者を見比べてみるとわかりやすく、ガランとした空間で都会的な高鉄台中駅に対し、台中駅は廿瓦造りの古い駅舎と建設中の新駅舎とロータリーが共在し、正に新陳代謝をしようとしている。これらのコントラストをつまみ見、台湾の地層を考えていこう。


舞台劇を中心にグッズショップやレストランなどを展開する複合コンサートホールの「台中国家歌劇院」は、高鉄台中駅からバスで30分ほど乗った場所にある。いびつな形の高層ビル群に囲まれ、整備が行き届いた公園の正面にドンと構えている。2014年に伊東豊雄が設計したこの施設は、長方体のフォルムのなかに有機性を内包しており、まるで琳派が描く川の流れのような曲線が、外観をたゆたうている。中に入ると、その曲線は空間に展開され、まるで森のように水が引き、橋が架かり、幹に見立てられた階段やホールを避けるように、グッズショップやカフェスペースがある。平面空間だけでなく縦軸も曲線で構成され、階段や壁は自由にカーブを描き、屋上にはゆるやかな丘があり、花が咲き、カップルが芝生に寝転び親子が街を見下ろす。西洋の幾何学的な曲線とは異なる、まるでおどけるように有機的な広がりを見せていた。屋上から周囲を見渡すと、歌劇院とそれを囲む直線と直角のビル群とは対照的で、人間至上主義から自然との共生へと価値転換を試みていることが見受けられる。

 

台中国家歌劇院

 

いっぽうで台中駅周辺では、新旧が交錯しエネルギーに溢れている。線路北側に「建国路」が、南側には「復興路」が伸びていて、これは街の歴史にもつながっている。北側は日本時代の建築群が並び、街も歴史が長く、栄えている(そしてそのエリアに対し“建国”という単語が当てはめられている)。現代では老朽化に伴う再建が進んでおり、その渦中にあるビルなどは、戦後も過去に過ぎ去った現代ではなかなかに見れない造形が、触れればいまにも崩れてしまいそうな儚さを持ち耐えて建っている。そのまま視線を地上に下ろして行くとすぐ隣のビルの1階ではおしゃれなアイスクリーム屋が、軽食屋が並んでおり、ショートパンツをはいた若い女の子がたむろして立ちながら食べている。脇に流れる緑川は整備され、子どもが水遊びを楽しみ、カップルが宮原眼科(日本時代の建築跡に建てられたパフェショップだ)のアイスをつついていた。

 

台中駅。右が現駅舎、左奥が建設中の新駅舎

 

「新旧」の二元軸では測りきれないエリアもある。高鉄台中駅から線路を渡って台中国家歌劇院とは逆の方向に行くとある、「彩虹眷村(英訳だと“Rainbowvillage”)」だ。台中では人気の観光スポットで、黄永阜(こう・えいふ)という御歳94の御仁が、家の壁や屋根、道路、塀と、小さなその集落のあらゆる場所に原色の鮮やかな絵を描いている。観光客はバスかタクシーで訪れるケースがほとんどであろうが、何気ない郊外の町並みに突如としてそのエリアは現れる。観光客で人だかりができ、パパイヤやアイスを売る露店が点在し、極彩色の家々を背に様々な肌の色の人が記念撮影をしている。絵は、いわゆるアウトサイダー・アートと呼ばれるもので、正教育(ここで言う「正」とは西洋絵画だけでなく、広義として東洋絵画も指す)を受けていないがゆえの力強さと、描画する愉しさ、自由さが伝わってくる。だが、ひとつひとつモチーフの細部を見ていくと、アボリジニや東南アジアの流れを感じさせる民族的なドットや描線、日本のサブカルチャーを思わせるキャラクター、絵の隙間に描かれる繁体字が丁寧に描かれており、感受した種々の文化から引用されていることがわかる。


黄は、これらの絵を思いつくままに自由に描いていったと言う。国境線によって分類されず島々を渡航したオーストロネシア人は、派生的に文化を生み、変容させ、伝えていったが、現代の我々はそれを謎解きするかのように、何百キロも離れた島々の共通点を見つけては驚き、見えないつながりを発見している。黄がこの村で試みている行為は、オーストロネシア人の派生をなぞることで、ぼくらの体内をたしかにその遺伝子が引き継がれていることを確認する作業なのかもしれない。それは、無意識であればあるほどに尊い。


この集落のまわりは空き地になっていて、雑草が無頓着に生えていた。原っぱに立ち、少し遠目に彩虹眷村を見渡す。当初この地区は再開発が予定されていたが、描かれた絵が注目を浴び、多くの人が訪れるようになり、嘆願書が市に送られたために、計画から外れることになった。結果、周囲の環境とはまったく異なるかたちで現在も残っている彩虹眷村は、地盤の変動で断絶や歪曲を起こした地層褶曲のように、表象の地層を我々に見せている。

 

彩虹眷村の様子

 

「地層」と例えて何かを表現するとき、そこには複数が時間軸で連なっていることが示唆される。だが、政治においてその言葉が用いられるとき、得てして国家は言語を変え、建築を変え、食を変えて、過去につくられた文化を更地にし、自らの慣れ親しんだものを再構築しようとする。過去のものは現国家にとって忌むべきものとして破壊されてきた。歴史において居座る国家が移ろい変わってきた台湾でも、積み上がる漢~日本~中国といった文化の地層が過去のものが葬られ、「現在」のもので覆われてしまう危険性をはらんでいる。「地層」とは逆説的に、「異なるものが隣り合っている=過去のものが引き継がれない」という断絶も示唆している。台湾の街並みを歩きながら、現代的なものに建て代わり更新されるいっぽうで、その隅を見やると露出した地層=過去の時代の遺物があり、ぼくらは目を見張る。


では、現代という地表は、どんな地層を積み上げようとしているのだろうか。ある日、朝刊の記事が目に止まった。ドミニカ共和国が台湾と国交を断絶し、かたや中国と樹立したと言う。これによって台湾が国交を持つ国は過去最少の19となった。その数少ない、台湾と国交を結んでいる国のひとつ、バチカンは中国と関係改善に動き、それを警戒した台湾司教団はローマ法王と面会。「台湾は国際社会において孤児のような存在で、法王の祈りを必要としている」と訴え、中国との距離感を探り続けている。中東ではエルサレムがパレスチナとイスラエルとの間で揺らぎ、それはそのまま、後ろに控えるアメリカとロシアとの問題にも接続している。二大国の関与はシルクロードの極東にある中国や北朝鮮にも、そして日本にも当然及んでいる。つまり、国家と国家のつながり、そして摩擦は、オーストロネシア文化のように派生的に広がり、影響し合い、緊張関係にあるのだ。だからこそぼくらは、大陸を、海を超えて渡る文化を学び、それらがどのように残り、消えているのかを考え、人種や文化だけでなく、同じくオーストロネシア的な現代の国際情勢を、渡航していく必要がある。


見えないものを想像し、埋もれた地層を発見せよ。軽やかに鳥の目で、海や国境を超えて俯瞰しろ。

 

台中駅の復興路で座り込む東南アジア人

 

今回焦点を当てた多層な文化、国家、海の、そして地層のずっとずっと下には、プレートが流れる。台湾はフィリピン海プレートとユーラシアプレートがぶつかる場所にあり、両者の緊迫関係の上に島が成立している。必然、日本と同様に地震の多いエリアで、1999年に起き2400人以上の死者を出した「921大地震」を思い出す人は記憶に新しい(このとき、日本からは多くの救助隊が急行・救援し、それは台日関係の親密化につながった)。いっぽうでこういった地層の特徴は台湾に温泉をもたらし、これらも台日の心理的な距離を近づけることに貢献しているのかもしれない。そう、ぼくらは、文化を、社会を、歴史を、地表であたふたと騒ぎ立てる人間だけによって構築しているのではなく、そのずっと深く長く胎動するプレートの動きの上で「構築させられている」のだが、その話は、また別の機会に譲りたいと思う。

 

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