企画展 - 2018.07.23

『手繰り寄せる地域鑑賞』 vol.4 断絶しないオーストロネシア・アイランド、台湾 前編

立ち上がれ 見えないアプリケーション

「ポケモンGO」をぼくはやっていない。日本でアプリが公開されたときに、試しにとインストールして家や近所をうろうろとしてみたり、知人と世間話のひとつとして話題にしてみたりはしたものの、スマホの電池をいやに喰うのに辟易したのと、物珍しいモンスターを捕らえようと、出張のタスク(と捉えてしまうのはA型の性か)が増えることに勝手に疲れてしまって、数日と保たず止めてしまった。飽き性でものぐさとは、言い換えるとつまり真面目で完璧主義なのだ。


だが、「地域鑑賞」という(地域芸術祭を筆頭とする、地域を活性化させる試みとしてのアートではなく)地域自体をアート鑑賞の視点で見ていくとどう映るか、という試みに沿って考えると、「ポケモンGO」は非常に興味深いツールだ。(これも散々評されてきたことだが)家のリビングや、近所の公園に仮想の生き物を立ち上がらせることで、日常の見え方を変え、深夜にもかかわらず人をなんの変哲もない街頭の下──ジム──にたむろさせた。つまり、テクノロジーが空想を変え、当事者の行動を変え、そして対傍観者も含めた景色を変えたのだ。景色とは、公共性の高い誰とでも共有できるものではなく、個人によって見え方を変える、極めて当事者性の強いものである。「ポケモンGO」はAR技術の導入により、スマホへのインストールという簡単な作業で、新たな視点を人に与えた点に、その可能性がある。薄々と感づいてはいたものの、地域に行ってはあれこれとひねくり回して観察している人間からすると、悔しいくらいに簡単に取り入れている(「地域鑑賞」のアプリができたら、迷わずインストールしたい)。

 

日本時代の建築を再活用したアイスクリーム屋・宮原眼科

 

4月、急きょ台湾に行くことになった。台北で開催されていた、ある美術展の取材が目的だった。台湾と言えば日本人の旅行も多く、ぼくの周囲でも「弾丸で行って小籠包を食べてきた」とか「買い物に明け暮れて来た」というような声をよく聞く。何気なくテレビのチャンネルをまわせば(「まわす」という言い回しの語源にピンとくる人も最近では少なくなっているのかもしれない。その意味でぼくは、主体的にそれを知っている最後の世代だ)芸能人が台湾を観光する類の番組が流れていることも少なくなく、そこに大衆的な需要があることは間違いないだろう。いっぽうで、台湾から日本を訪れる観光客も多いと聞く。新宿や渋谷を歩いていても、中国人だけでなく、台湾人を見かけることが増えてきた(外見のみでそれを見分けることは難しいが)。日本人と台湾人は互いに両方の地に関心を持ち、観光をし合っている。そういった体感と現状を前に、もちろんぼく自身も台湾には一度訪れてみたいと、その都度思ってきた。そんななかで出て来た台湾訪問の話は、来るべくして来た魅力的な機会だった。


旅の記憶を遡る前に、歴史について簡単に振り返っておきたい。台湾は、政治的に外部に翻弄され続けた歴史を持っている。もちろん、国と国とが隣接し国境を成す以上、そこには常になんらしかの摩擦が発生するであろうから、「翻弄されなかった国」などはないに違いない。それでもなお台湾が言及する特別な意味性を持っているとすれば、これだけ(日本人の)大衆に認知と受容され(小籠包が愛され、『千と千尋の神隠し』のモデルに台湾の町・九N[きゅうふん]がなったと噂され)るだけにあらず、「日本国」と呼ばれていた時代があり鏡像関係にあるためであり、と同時に、台湾を指して「国」とは気軽に発言できない、境界線の曖昧さを抱えているためだ。

 

6000年ほど前、まだ国境など概念さえも存在していなかった頃、人々はその優れた航海技術をもって島々を渡り、中国から台湾へ、そしてミクロネシアからメラネシア、ポリネシア(「ネシア」とはギリシャ語で「島々」を意味する)へと民族の移動を進めた。彼らはのちに「オーストロネシア人」と呼ばれ、社会的な境界線である国境も、物理的な境界線である海岸線も超え(このあたりの考察はvol.2を参考されたい)、軽やかなリニア的拡散を進めていった。この拡散のベクトルは遺伝子的な特徴はもちろん民俗文化にも見られ、アニミズムを根とする神話や祭事、化粧、対話といった種々に現代も共通点を残している(余談だが、東洋文庫ミュージアムで5月27日まで開催されていた「ハワイと南の島々」展は、このあたりの諸島の文化形成を丁寧に紹介していた)。彼らの一部は黒潮や対馬海流に乗って日本を訪れ、(縄文人→弥生人という単線だけでなく)波紋のように広がり伝染したヤポネシアとして指摘される「日本人」の多様性を担っている。


ゆるやかなつながりを持っていたオーストロネシア人が定住したかつての台湾が、大きな歴史に巻き込まれ始めたのは17世紀初頭だ。アジアに勢力を伸ばしていた西欧諸国のうち、オランダとスペインが拠点としての台湾本島に目をつける。彼らはそれぞれ南部と北部に入り領土を広げていくが、最終的にはオランダがスペインを駆逐。島の全域をオランダが占領した。だが、そこに大陸の人口増加に押されるように漢民族が海を渡り、台湾南部に移住を始める。1644年に李自成は明朝を滅ぼしたのち清朝を立てたが、台湾に入った鄭成功はオランダ人や原住民を追い出すと、明朝を再興しようとする「反清復明」を掲げ、その拠点とした。台湾は、言わばクーデター基地としてその自我への歩みを始めたのだ(この辺りは、朝鮮からの亡命者が神やその偶像として、日本書紀や古事記で語られている日本とも重なる)。

 

19世紀末になると、日清戦争に勝った日本が台湾を統治することになる。日本は「工業・日本、農業・台湾」をスローガンに掲げ、サトウキビなど農業の発展を計画的に台湾で実行した。その過程で、日本語教育を進め、食事や習慣、作法、つまり文化を浸透させていった。1945年に日本が太平洋戦争で敗戦すると台湾は中国に「返還(光復)」されるが、以前より台湾で生活していた本省人が弾圧されたのに対し、光復後に移住した外省人は保護されたため、国民党による統治への不満が噴出し、「二・二八事件」に結実した。この事件は両者の対立構図を明示するかたちとなり、本省人は統治国としての日本と中国を対比し、「犬が去って豚が来た」と比喩した。

信号待ちするスクーター

 

反清復明から二・二八事件につながる台湾と中国との断絶は現代にまで続き、中華民国は中華人民共和国とは別の国家として承認されていない。国家として承認し、国交のある国は約20カ国で、日本を含む多くの国は承認を脇におきながらも文化や経済的な交流を交わし、事実上の大使館(日本では公益財団のかたちをとって「日本台湾交流協会」としている)を設置している。

 

過去に植え付けられた「日本性」は、今日の台湾にも多く現出している。海外を旅していて日本料理屋に出合ったり日本語を見かけたりするとげんなりするものだが(そうひねくれて考えるのはけっしてぼくだけではないはずだ)、そういった表層的な「日本的なもの」でなく、現実的かつ深層的な点において、台湾は「日本だった」と、事実として言及できる。これらの違いは、ぼくらの受け取り方を変えさせる。


先に「鏡像関係」と言ったが、面白いのは、同じでありながらそれでもやはり、日本とはどこか異なることだ。なんだか看板がやたらと多いこと。スクーター(ここ台湾では「バイク」と呼ばれている)がびっしりと駐車されていること。その小さな数々の違和感は、自分の声を録音して聞いたときの、じゃり、と犬歯あたりでいやなものを噛んだような感覚に似ている。横断歩道が青に変わる。信号機の中の青いピクトは、てくてくと小馬鹿にしたように足踏みをしている。


これらの違和感は、「地層」への入口を為している。どういった文化の、そして歴史の違いから違和感は起こっているのだろうか、と問いが想起され、見えているものから見えていないものへの想像力が起動する。哲学の世界に住む人々は「見えないものの世界」で考察を広げるが、多くの人──ぼくらは「見えているものの世界」で知覚し、そこから考察を広げる。「ファミリー・コンピューター(通称「ファミコン」)」の進化は仮想世界を構築し、亀の甲羅を使いこなし土管をくぐるヒゲオヤジの世界を旅したり、優生思想すれすれで村々から恩恵にあやかる勇者の一族と世界を守ったりしたが、それらはいずれも「見えている世界」を仮設したものだった。少しだけ俯瞰すれば、テレビゲームの発展は東京ディズニーランドの開園とシンクロし、そののちにインターネット・ワールドを張り巡らし、世界を複数化していった(その結果、別の世界に移住した人は「引きこもり」と呼ばれ社会問題に扱われ、村上春樹は複数の世界を渡り歩き「見えているもの」の不確かさに翻弄される主人公を描いた)。昭和から平成に至る時代を「見える世界を仮設し複数化した時代」と解釈したとき、2010年代以降の近年はどう捉えることができるのだろうか。

 

そのとき、「ポケモンGO」は起動する。「見えているものの世界」を上塗りし、そこに「見えないもの」があるかもしれない、という可能性の、想像力の、気付きを日常に与えてくれる。世界は見えているものだけで構成されているのではなく、さらには擬似的に仮設したものだけでもなく、見えないものが上塗りされているのかもしれない。さらに反転すれば、「(かつて見えていたにもかかわらず)見えなくなったもの」が、あるのかもしれない。ぼくにとって台湾への旅は、この想像力を試験的に立ち上げるためのものだったとも言える。それでは、具体的に起動しよう。

 

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