企画展 - 2018.06.26

『手繰り寄せる地域鑑賞』 vol.3 最果てのタスマニアと、アウトサイダー・ジャーニー 後編

アウトサイダーたちの道行き

アウトサイダーたちは、イギリスから海をわたり、オーストラリアを経てタスマニアの港町・ホバートに行き着いた。だが、この町に軍事あるいは貿易の拠点となった施設は多く残されているものの、大型の刑務所と呼べる施設はない(小さいものでは、カスケーズ女子工場跡地がある。港から車で10分ほどの場所にある、女子流刑囚の労働施設だ。ここでつくられたクラフトビールは、現在では立派な観光資源になっている。味も悪くない)。流刑囚たちは、タスマニアのどこに錨を下ろし、どこに根を下ろしたのだろうか。後編では、その道行きの終着地を追ってみたい。


タスマニアに限らずオーストラリアの各域に点在する流刑囚跡地は、「オーストラリアの囚人遺跡群」として2010年に世界遺産登録されている。取材時に開催されていた「シドニー・ビエンナーレ2018」(芸術監督は、森美術館のチーフ・キュレーター、片岡真実だ)では、シドニーから船で数分行ったところにあるコッカトゥー島が会場のひとつだったし、先のカスケーズ女子工場跡地も遺跡群のひとつだ。


タスマニア島にあるいくつかの囚人遺跡群のうち、もっとも大規模で有名なのがポート・アーサー流刑場跡地である。最果てと感じたホバートから、湾沿いに車でぐるりと回り込むように走ること90分──そう聞くと遠く感じるが、直線距離ではそう離れていない。地域鑑賞をするときに勘違いしがちだが、陸路が主な交通手段になったのは、えてして近現代になってからである。それまでは水路のほうが、早く、大量に物や人を運べた。タスマニアの南側はリアス式海岸になっていて、湾が入り組んでいる。船で移動すれば、ホバートからポート・アーサーまではそう時間をかけずに移動できたであろう。


いずれにしろ現代では選択肢はなく、ホバートから湾沿いに車を走らせることになる。市街地を抜けると、(くねくねと、あるいはまっすぐな)一本道が続く。信号は何十キロ走っても現れない。ウォンバットだろうか、小動物がときに道路を横切る。車に轢かれたその死体を、鴉がむさぼる。街灯もない、雄大な自然に細く長く伸びる1本の線──道路を、ひたすらにアクセルを踏み続けながら、旅の同行人と視察の解釈を縦に横にと転がし、思考実験を遊ぶ。自由に抽象と具象の間を泳ぐその時間の楽しさといったらない。何か新しい発見がそこに生まれようとしている興奮を抑えながら、ただ目の前の道を走るのだ。やがて、いくつ目かの山を越えたところに案内看板が見える。そこから細いY字の道をぐっと下ると、こぎれいなビジターセンターが見える。湾と山に囲まれた、天然の刑務所、ポート・アーサー流刑場跡地だ。


この世界遺産は、観光地としてかなりの完成度を誇っている。「流刑場」という言葉からは連想しにくいが、芝や庭木はきれいに整えられ、ガイドツアーや観光船は手軽に知るに便利で、カフェやグッズコーナーもある。施設は、テーマパークとも呼ぶべき充実を示している。山腹のそこかしこには家屋が点在しており、病院、教育施設、地産地消を試みた農園、教会などの役割を担っている。なるほど、独房などひとつひとつに目を向けるとたしかに狭く満足とは言い難いかもしれないが、それでも現代の「刑務所」のように高い塀に囲まれ、徹底管理され、「罰」という単語を連想させたのに比べると、この土地で生活を、エコサイクルを築こうという覚悟を感じさせる。管理する者も、される者も、異なる役割を持ちながらもここで共生し、生活を切り開き、人間的に充足させようという意識が見える(ぼくは武者小路実篤の新しき村をどこか思い出した)。


開拓当時の水路を、そこに立ち現れる視点を少しでも取り入れようと、観光船に乗船し、湾内を周回した。湾から見ると、ポート・アーサー流刑場跡地はすり鉢状になっているのがよくわかる。入江を囲むように施設が点在し、その後ろを山がぐるりと囲っている。日の光を浴び、緑は鮮やかに色づく。水面の船跡はキラキラと軌跡をなぞる。先に「天然の刑務所」という言い方をしたが、外界の脅威からアウトサイダーたちを守る要塞のように、あるいは(言い過ぎという誹りを恐れず書けば)楽園のようにも見えた。だが、現代を生きるぼくがそう思うのは、最果てに流され取り残されることで、結果なにかを守ることにもなったのかもしれない、と心理の奥で感じているからだろう。

 

ポート・アーサー流刑場跡地を湾から眺める

 

ホバートから湾をまわり、ポート・アーサー流刑場跡地に行く手前を折れ、別の半島に入っていく先に、もうひとつの「オーストラリアの囚人遺跡群」、ソルトウォーター・リバーの炭鉱史跡はある。道を折れたあと、人家もまばらになり、そういえば人気がなくなってきたな、と思い始める頃に遺跡は現れた。車を駐車場に止め、藪の中に入っていく。草木は寒々しく、ときどきひょろりと伸びている木が、物寂しさを強調している。ここは炭鉱として流刑囚によって拓かれた場所で、石炭を積んだトロッコを海岸まで運んだレールや、その管理をした小屋や船着場の跡が残されている。芝地では視界が開け、ところどころにレンガづくりの壁が崩れて残っている。そこには病院や教育機関の施設があったようで、暖炉の跡が印象的だった。そこにはかつて、最果ての島で火のゆらぎに寄り添い、暖をとった人々の残り香があった。もちろん、芝地の脇には独房と思われる跡もあった。窓枠だったのだろう、崩れた史跡の前に立つと、海が一望できる。潮の香りが混じった風が、強く吹く。目の前の景色は、湾、木々、緑、稜線と、この地に流刑囚が赴き、土地を切り拓いたときから大きくは変わっていないのだろう。「ソルトウォーター・リバー」という地名の通り、入り組んだ湾の影響で真水が確保しづらかったこの僻地で、囚人は炭鉱を掘り、厳しい労働を乗り越えようとした。

 

ソルトウォーター・リバーの炭鉱史跡

 

生態系という必然的な多様性

 

タスマニアに来てからというもの、胸を締め付けるような感動をじんわりと感じ続けていて、その理由を探していた。それは、壮大な景色を見たとか、土地に住む人の優しさに触れただとか、そういった直接的な、瞬間的なものではない。ホバート空港に降り着いたとき、車で道を走っているとき、MONAや流刑場跡地にいるときに、通奏低音のようにぼくのなかを流れ続けていた、島と、大地と、接続している感覚だ。
少し俯瞰してみると、ポート・アーサー流刑場跡地、ソルトウォーター・リバーの炭鉱史跡、そしてホバートという、アウトサイダーたちが錨を下ろし、土地を、日々を、生活を切り拓いた場所は、ほぼ直線上に位置している。これらの3地点は、灯台から信号を送り、船を行き来させ、連携を取っていたと言う。振り返ると、ポート・アーサーは流刑囚の社会や酪農の地として、ソルトウォーター・リバーはエネルギー資源の採掘地として、そしてホバートは貿易の拠点としてそれぞれが役割を持ち、それらを湾内の穏やかな航路がつなぐ──という、ひとつの社会を形成していることに気づく。各地点のミクロ視点と、タスマニア、そしてオーストラリアやイギリスという俯瞰で見たマクロ視点という地形的な平面座標と、歴史の大渦という縦座標というふたつの必然性が交差する生態系が、ここにあるのだ。


アウトサイダーたちが築いたスモール・ワールド(社会)における多様性は、支配/被支配といった二元化とは異なる、あるいは、現代の東京に見られる「孤独な多様性」とも異なる、それぞれの役割を全うし、共生によって土地を切り拓こうとする、「生態系における多様性」と仮定できるのかもしれない。


遺伝子が着床し、毛細血管が行き届き、胎盤が形成される(根を張る)。つまり、ぼくらは胎内から生まれ出てしまった段階で「大地」から根を剥ぎ取り、食という消化行為によって細胞分裂と排泄を繰り返す燃費の悪い生き物になる。それがある日、「着床」によって、第三の生命を生む革新的な母体となる(雄であるぼくもまた、広義としてそう思いたい)。大地の地理的必然性の上で社会が、都市が──そして本来は消極的な意味合いの刑務所でさえも──成り立つとき、それを「着床」と呼び、大地と人間による第三の「創造」物として、都市を見たい。アスファルトという薄い膜に大地が覆われ、グローバルに複製(フランチャイズ)されたショップに溢れるビル群は、「創造」と呼び難い。母親と父親の遺伝子という必然性をもって胎盤のうえにその胎児が育まれるように、その地形とつながりながら生活を築き、社会という生態系のなかで必然性をもって自分の役割を果たせないだろうか。

 

Airbnbでお世話になったジンバブエ出身の老夫婦。祖父の祖父がイギリス人でこの地に来たのをきっかけに、いまタスマニアに住んでいる。彼らもまた、行き着いたアウトサイダーだ

 

エリアフ・「インバル」とピョートル・チャイコフスキーは、自身がアウトサイダーであることに自覚的だった。そして、「西洋」音楽や「クラシック」音楽(これらも実に優生的な単語だ)の世界で評価を得ようとする以上、彼らの話法を学んだそのうえで自己表現を試みることが重要だと気づき、インサイダー(「西洋」音楽家)になろうとした。インバルはパリ音楽院で学びクラシック音楽の指揮者としてデビューし、だからこそ西洋の話法で表現活動を続け戦っていたマーラーに共感を示したのだろう。またチャイコフスキーは(ロシア音楽的に見ればグリンカや「五人組」といった先人がいたが)、ソナタ形式を筆頭とする西洋音楽の作曲法や水準のなかで「ロシア的」な表現をしたからこそ(それは、美術で言えばゴッホらの「ジャポニズム」が流行った感覚に近いのかもしれない。主流ではなく、物珍しいオルタナティブとしてもてはやされていたのだ)、「世界的なロシア」作曲家として評価されたのだ。

 

2人の音楽家に学ぶように、近現代で全世界にまたがる大渦は、「インサイダー」「アウトサイダー」という二元化を、国家や個人において強めた。資本主義・帝国主義が溶け始めている現代は、どうだろうか。戦後、アメリカに追随した日本では、現代になって、戦後日本史を読み直そう──日本における日本の価値を日本によって捉え直そう──という動きが見え始めている。だがいっぽうで、国家・日本が核の傘下から出ようという姿勢はいまだ明示されていない。昨今の地域活性の流れはどうだろうか。どこの県でもアピールされている、美味しい食べ物、豊かな自然、癒しの温泉といったものは「インサイダー」──マジョリティーの価値観によるもの──ではないだろうか。その土地に、地形に「着床」し、そこから生まれ出づる必然性のあるものを、自分の価値観に則って積み上げられているだろうか。そして、そういった文脈で振り返ったとき、エリアフ・「インバル」による、丁寧に構成を解き明かすようなチャイコフスキーの演奏は、まるで「すべてわかったうえで西洋の話法の上で踊ってやってるんだぞ」という「ヨセフ」の挑発的な訴えにも誤読できる。インサイダー/アウトサイダーの二元化が溶け出したいまだからこそ、時代のなかで「インサイダー」になろうとせざるを得なかった2人の音楽家を正しく俯瞰することができ、自らの行動のリトマス試験紙として批評的に解釈することができるのではないだろうか。

 

ポート・アーサー流刑場跡地の湾にある「死の島」。多くの墓が立てられている。このモチーフは画家のベックリンが19世紀に繰り返し描き、ラフマニノフも同名の曲を作曲している

 

重い扉を開けてビルのなかに入ると、途端に雑踏の騒がしさは聞こえなくなる。靴音の響くなか、階段を降りて行く。周囲に人はいない。地下に降りて店に入ると、薄暗い照明の上品な店内を、席に案内される。やや大仰なワイングラスに入った赤ワインを口に含み、香りを、少しとろみのある舌触りを楽しむ。美味しい。やがて運ばれてきたステーキも、これまで抱いていたオージービーフのイメージと異なり、大柄でなく牛の臭みがない。繊細な赤身をナイフで切ると、血はにじまず、繊維を解きほぐしていくような感覚になる。シンプルに岩塩をぱらりとかけて食べると、その旨味は至極際立つ。美味しい。ワインも進む。


タスマニアの視察を終え、シドニーでぼくは資本主義を食す。やはり、都会的で上品なこの環境も、悪くない。生きることの話と生き方の話は別のことなのだ。生態系としての多様性を吠えながら、かつ生きていくこととしての経済活動も維持する。そのなんとも難しいことか。それを実現している人がたしかにいることはぼくに勇気を与えてくれるのだが、その話は、また別の機会に譲りたいと思う。

 

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