企画展 - 2018.03.30
『手繰り寄せる地域鑑賞』 vol.2 博多で泳ぐ、境界線ワークショップ 後編
Lesson.3 ルールを書き換えればいい
57年頃に漢の光武帝が委奴国王に与えたとされる金印が発見された志賀島までは、浅瀬が細く長く続いている。バス(ぼくはバスに乗って行ったが、海の中道線の電車はローカルでかわいらしく、オススメだ)に乗って道を進んでいくと、半島に差し掛かったあたりでビル群はまばらになり、木造の商店や民家が散見し始める。そして、ある地点からぷつりと周囲は砂浜と松林に替わる。正史から取り残された離れ小島にうっかり降り立ってしまったかのような、そんな絶縁が広がっている。そんな弓なりになった半島のなかほどに、博多の誇る大型水族館はある。バスを降り、松林をかわすとがらんとした広場に出る。とぼとぼと歩くその道の先に、大きな扇型の建物がそびえる。それこそが、水族館「マリンワールド海の中道」だ。
写真奥が、マリンワールド海の中道
ぼくは水族館が好きだ。旅に出ると、極力近隣の水族館を訪れ、ゆっくりと鑑賞する。たゆたうブルーと差し込む光、そして空気の泡に覆われながら水生物の動きを追っていると、やわらかい気持ちになり、現実をしばし忘れることができる(それでもやはり、仕事のメールは着信し続ける)。
特に好きなのは、アオウミガメだ。体のラインは上品で知的さを帯び、乳白色のヒレは磁器のような柔らかさを兼ね備えている。このヒレから甲羅にかけてのラインは何度眺めても不思議で、軽やかな肌色から、ゴツゴツとあまりに物質的(骨格的)な甲羅という、あまりに異質な2つが、もともとひとつであったかのように、自然と接合されている。否、正確には、ひとつのものが2つに分かれ、それぞれが独自進化をしたような印象だ。肌の毛穴から髪の毛が生えるように、スペアリブで肉が骨を覆うように、異物と異物の接点には本来、接合面があるべきだが、亀の甲羅とヒレには、それがない。境界線がないのだ。
ぼくが近づいて行くと、アオウミガメはガラスにぶつかり、ヒレで叩き、こちら側に来ようと試み続ける。そこにある、ガラスという見えない、だが明確に物質的な境界を乗り越えようとしているかのようだ。その様を見ている時間は、日頃、効率化や合理化に蝕まれたぼくの24時間のなかで、希少な理由のない時間だ。
マリンワールド海の中道のアオウミガメ
マリンワールド海の中道は、約半年間の休館を経て2017年4月にリニューアルオープンをしたばかりだ。そのため施設としては新しく、展示にも意欲的な工夫が随所に見られる。新たな展示テーマは「九州の海」で、冒頭には九州近海や代表的な生物を9つに分割して紹介する「九州の近海」エリアが待つ。博多湾、錦江湾、西海、宮崎海岸、有明海、佐賀イカ、大分豊後水道、福岡魚礁、ウミガメ(その分類にイカとカメが含まれていることに違和感を感じずにはいられないが、そこは紳士的にそっとしておきたい)、とそれぞれの特徴をわかりやすく見せている。
水族館において、このことは言葉の響きほど簡単なことではない。水を囲う水槽という枠組み(美術に寄せて言えば「額縁」と言い換えられるかもしれない)が必然的に求められる「水族展示」では、「それぞれの特徴」をどうしてもその枠組みのなかで見せようとするため、表現が窮屈にならざるを得ない。岩場がつくられたりサンゴが置かれたり、という水槽(額縁)内でよく見られる工夫は、宿命として「水族館」が背負った原罪的な特徴づくりだ。
いっぽうで、優れた庭園は敷地内で見事に枯山水を表現しながら、背景にある山々を、カラスの鳴き声を、ぽたぽたと池に広がる波紋と雨の匂いを借景とし、広い視野いっぱいを呼吸するように取り込む。庭園と自然の境界をやわらかくする。これと同じ手法を取り入れた水族館の事例としては、大分県の「うみたまご」が挙げられる。海の水平線と人間のアイレベルを揃えて見せることで、海と水槽の境界を曖昧にし、広大さを獲得している(ぼくが訪れたときはちょうど大雨の日だったため[それはそれで極めて残念だったが]、その境界はさらに曖昧だった)。
さて、話をマリンワールドに戻そう。この水族館でもっとも心の踊るコーナーは、9つの近海のうちのひとつ、「有明海」だ。有明の干潟が仮設再演されており、ムツゴロウがピチピチと泥のなかを跳ねている。(泥が跳ぶことがあるため)顔を近づけすぎないように、と注意書きがされているのが、なんとも心憎い。そしてその向かいには、干潟にまつわる文化──通常とは異なる形態の釣竿、網、ムツゴロウを材料にしたお菓子まである──が展示されており、人間が干潟とどう向き合い、共生してきたのかを知ることができる。長崎県は有明海に関するPR動画を複数つくっているようで、これらも展示の脇で流れている(これがまたコミカルで単純に面白い)。
「水族館」は、水生動物を展示する施設として、先に触れたように水槽のなかに生き物を入れ、そのなかで見せてきた/見せざるを得なかった。結果、(まるでギャラリーのホワイトキューブのように)「展示物」としての純粋性が担保されるいっぽうで、枠組みとしての閉塞性が強調されてきた。アクリル板を自由に加工する技術の発達により、海獣の水槽をパイプ型にするなど近年自由な行動展示がしやすくなったり、(海よりも低コストで再演がイージーな)川の生きものの暮らしをサイトスペシフィックに見せたり、といった新しいいくつかの水族館に見られる工夫は、「額縁」の意味化を試みようとする涙ぐましい事例である。だが、この有明海のコーナーは、「額縁」という考え方自体を取っ払い、干潟と向き合う文化・文明も見せることによって、「水生動物を見せる施設」という水族館の至極もっともな定義を軽やかに飛び越え、水生動物にまつわる文化を見せる施設──「水生博物館」としての可能性を提示してみせている。 そこに、枠組みにまつわる表現レースから脱臼し、新たな価値拡張を図っていることを、ぼくたちは評価しなければならない。
有明海のエリア。干潟ならではの道具や江戸時代に描かれた絵図など様々な関連資料が展示されている
別の施設ではあるが、もうひとつ例を挙げたい。「新潟市水族館 マリンピア日本海」は、展示設計による文脈づくりによって「水生文化(仮にこう呼称してみたい)」の解釈を広げている。
展示の入口すぐにある日本海の「水生動物を見せる」コーナーにおいてまず彼らは、朝日〜昼〜夕日〜夜を照明の変化で演出しながら時間軸をインストールし、潮の満ち引きによる日本海の表情の変化を見せている。
また、その前室にあたる展示全体の導入部では、地球という惑星における海をまず紹介し、壮大な導入ののちに導線を狭くして視界を遮る。そして角を曲がると、そこから一転して先の日本海が拓ける。この展示設計はとてもドラマティックで、胎内(その羊水は、古代の海水と類似した成分だと言う)の小「宇宙」で個体形成された「わたし(鑑賞者)」が、産道を経て外界(日本海。さらにはその奥に続く、多様な展示コーナー)へと旅立つ生命のハイライトと重なる。ましてや水族館におけるその演出は、誕生から反転して海(羊水)へと還る合わせ鏡(「わたし」の存在性の探究)を示唆している。スタッフの展示技術とスケールに、惜しみない拍手を送りたい。
新潟市水族館 マリンピア日本海の導入から日本海コーナーにかけて
線は、概念、二次元、三次元を自由に泳ぐ。こちら側と向こう側を融和させ曖昧にすることで、概念上のものだった「線」は(対馬やピピロッティ・リストの作品のように)やわらかくにじみ、物質性を帯び面と捉えることで(ベルリンの壁やDMZ、元寇防塁のように)存在の意味を発生させ、社会的意義を持つようになる。そしてまた、線を測るうえで新たなものさしを導入することで、(シルク・ドゥ・ソレイユや水生博物館のように)意味づけは複数化し、複層化する。多様性が生じる。
解釈の抽象度を上げたその先に、物事の多様性はどんどんと膨張を見せる。いっぽうで、皮肉にも「多様性」という言葉には、それ自体が「多く(の個)を内在している」という境界線が孕ませられていることになる。ぼくらは一人ひとりがスマホを持ち、SNSで自己演出をし、多様な働きかたを達成し、結果、孤独を深めている。「多様性」とは畢竟、「細分化」でしかないのだろうか? そこには「キメラ」「着床」というキーワードが相対しているように感じられるのだが、その話は、また別の機会に譲りたいと思う。
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