企画展 - 2018.06.04

『手繰り寄せる地域鑑賞』 vol.3 最果てのタスマニアと、アウトサイダー・ジャーニー 前編

クラシック音楽・モーフォロジー

先日の土曜日、都響(ときょう)──東京都交響楽団とエリアフ・インバルによるチャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」の演奏会を聴きに行った。説明の必要もないであろう、ロシアを代表する作曲家・チャイコフスキーの最後の交響曲にして、全体を通じて哀しみに満たされたこのシンフォニーは、初演の数日後に作曲家が死んだとされ、それは自殺とされていたりとか、同性愛者だった彼の、思いを明らかにできない悲痛と晩年の老いが原因であるだとか、様々に通説されている。

 

1楽章冒頭、コントラバスの通奏低音から始まると、やがてため息のような木管楽器の主題がささやかれる。メロディーの密やかさとは対照的にビオラの裏拍は動悸のように楔を差し、少しずつ心音は16分の刻みへと変わり、早まり、高鳴り、そして胸の内側を掻きむしる。主旋律は木管からビオラ、そしてチェロへと受け継がれ──つまり、ため息は低く重いものとなり、深刻さを増す──、そこから一転してヴァイオリンへと渡される。音域を駆け上がるごとに音は鋭くなり、ヒステリカルになり、防波堤を超え、途端、頂点をめがけていた音楽は地を這うように(コントラバスのスフォルツァンドと共に)溢れ、自我(旋律)を飲み込んでいく──。

 

3楽章のアレグロからアタッカで、4楽章の深い沈痛は始まる。1楽章で繰り返されたため息のモチーフはぐにゃりと溶け出し、吐き出されるとともに沈み込んでいく。穏やかなホルンの調べで始まる第2主題は、アウフタクトとともにため息を重ね、熱を帯び始める。そのなかでインバルは冷静にタクトを振り、演奏者はグッと興奮を胸に押さえつけながら演奏を続けることになる。それでも音は密度を高めていく。そして最高潮になり放たれると、そこに残るのは墓場まで引きずるようなコントラバスの行進のみとなる。やがて、その上で悲痛な深いため息が弦楽器によって奏でられる。1楽章の動悸とは対照的な、重い心音がやはりコントラバスから放たれ、それもやがて止まる。行進──つまりこの曲も、止まる。


クラシック音楽のスコアでは、コントラバスがいちばん下に書かれている。そこから弦楽器、打楽器、金管楽器、木管楽器、とグループごとに書かれ、いちばん上は木管楽器のなかで音の高いフルートになる。それはまるで地層のようで、チャイコフスキー交響曲第6番では、地の下でゆっくりと移動を続けるプレートのようにコントラバスが鳴り、ビオラやチェロの心音がテンポを動かし、ため息の動機が様々なメロディー楽器によって継がれる。インバルの指揮は丁寧なテンポ設定で、そのときどきにおいて地層のどこが重要な動きを示しているのかを、あるいは俯瞰で見たときの大きな流れ、ベクトルを、意識的に明示しようとしていた。それは全般において理知的な印象を与える。ビオラを主とする硬質な刻みが維持されながら、堅苦しさや重々しさは感じさせず、主題が再現されるフォルテッシモでドラマティックにテンポを急減するものの、けっして「ロシアっぽい演奏」と揶揄されるような、感情的にものにもなりすぎていない。むしろ各楽器が足並みを揃え発言する重要な箇所を、明示するためのテンポダウンなのだろう。目的を持って、重なった音──地層──を丁寧に分析するように演奏が進められていた。

 

クラシック音楽の面白い点は、解釈の層が複層的である点だ。先に述べたような楽器ごとの層はもちろんのこと、作曲家によるスコア(総譜)の上に、指揮者、そして演奏する楽団という層が重なる。指揮者によってスコアの読み込みは異なるし、当然、楽団によって音の個性は異なる。それらがようやく聴衆に届けられ、受け手の解釈という最後の層として積み上がる。特にライブ演奏の場合、作曲家と指揮者・楽団・聴衆の間には時間的な溝が必然的に発生し、曲から受ける心象は同時代性に引きずられる。1989年のベルリンの壁崩壊記念コンサートの際に演奏されたベートヴェン交響曲第9番「合唱付き」は、極めてわかりやすい例だろう。東西ドイツ、東西分離のきっかけ(冷戦)を生んだアメリカとソ連、ドイツから見た当時の敵国・イギリスとフランスの楽団からメンバーを集め結成されたオーケストラによって演奏され(合唱団も東西ドイツから集められている)、第4楽章の合唱の歌詞は、「Freude(歓喜)」から「Freiheit(自由)」に変更して歌われた。この演奏会を指揮したのは、20世紀を代表する指揮者、レナード・バーンスタインだった。彼はユダヤ系のアメリカ人で、演奏の翌年に亡くなっている。自身が肺がんに冒されていたことを知っていた彼にとって、「第九」の演奏や「Freiheit」に込めた意味は複層的で大きく、現代日本において年末の恒例行事として演奏されるそれとは、まったく異なる同時代性を抱えていただろう。


エリアフ・インバルもまたユダヤ系の人間で、そして出身地はエルサレム(この地について説明は必要ないだろう)である。彼はパリ音楽院で「クラシック」音楽を学び、指揮者として活躍。特に、同じくユダヤ人であるグスタフ・マーラーの交響曲を得意とした(彼は、インタビューのなかで「マーラーは自分のために作曲してくれたのだ、という気持ちにさえなった」と過去にコメントしている)。いっぽうでピョートル・チャイコフスキーは、先にも書いた通りロシアの作曲家としてもっとも有名(と言っても過言ではないだろう)で、交響曲だけでなく「くるみ割り人形」「白鳥の湖」といったバレエ音楽も作曲し、「ロシア音楽」を世界に広めた。ここで強調したいのは、何故インバルとチャイコフスキーは世界的な音楽家として評価されることになったのか、という問いである。さて、それでは本題である、タスマニア島の旅に話を移そう。

 

インサイダーになれなかった者たち、ミドル・インサイダーに変質しなかった者たち

 

ホバート空港にて

 

最果て──。タスマニア島で最初に抱いた印象は、そんな言葉だった。羽田からクアラルンプール、シドニーを経由し、そこで一夜を越してから朝イチの便で、オーストラリアの南東に位置するタスマニア島、ホバート空港にぼくは行き着いた(そう、格安航空便というやつで、特にシドニー空港で一晩過ごすのは、こたえた)。飛行機から出てタラップを降りるときに視界に広がった景色は、寂寥感を感じさせる。伸びる滑走路と灰色の草木に、荒涼とした雲が忙しなく覆いかぶさる。三寒四温のなか肌寒い東京から(この旅が行われたのは3月だった)蒸し暑い経由地を経て訪れたこの島は、南極に近く、再び寒い。ぼくは思わずコートの前を重ねて、身を縮こませた。

 

タスマニアでの移動手段は、車に限られる。オーストラリアは右ハンドルで日本と同じであるうえ、市街を抜けてしまえば信号は(ほとんどと言うか、まったくの一歩手前だ)なく、森を、牧草を、湖畔を、心地よいスピード(具体的に何キロかは書けないので、主観に委ねる)で走って行く。日本にいては、こうも気持ちいいドライブはなかなかに味わえない。

 

運転のときは、極力窓を開けるようにしている。産業革命以後に生まれた(東海道を延々と歩いたことなどないし、馬で草原を駆け抜けたこともない)ぼくにとって、車の運転は身体性を伴う行為で、視覚はもちろんのこと、道のアップダウンを足で(アクセルを踏む)、ワインディングを腕で(ハンドルを切る)、その土地の匂いを嗅覚で体感する。草原で感じるカラッとした匂いも、牧草地で感じる牛や羊の匂いも、地形に宿る豊かな記憶だ。それを自ら窓ガラスで塞いでしまう理由はない。

 

ヒツジの放牧地。タスマニアにはこんな景色によく出会う

 

18世紀、イギリスは対外的な侵略を行う過程でオーストラリアへと行き着き、土地の「開拓」(あぁ、なんとも一方的で優生的な響きだろう)のために流刑囚を送り、従事させた。よく知られる通り、原住民であるアボリジニは生活を脅かされ、争い、そして土地を奪われていった。イギリスは先行して侵略していたインドや中国、インドネシアからも民を送り、「ミドルパワー国家」と20世紀に言い表されるような、国家としての多様性の素地をつくっていった。イギリスから見てユーラシア、そしてオセアニアと、渡航の(経由地でなく)最果てだったオーストラリアで、必然、移民は定住していき、生活文化を形成し、(一方的な)「開拓」から(結果的に住んでいる多民族の)「融和」へと移行した。第一次世界大戦を前後する国際的な緊張関係とともに、この被開拓地は「イギリスの属国」から「オーストラリア国」へと自我を獲得していくことで、反抗期と親離れを無事に果たす(そして親の素ぶりを見て育った子どもは、いみじくも「帝国化」していき、対外的な植民地化を第二次世界大戦で試みるのだ)。

 

こうして近代オーストラリア史を雑に俯瞰していくと、比較的「国家」の成立(と他国からの認識)が早かった日本人にはピンときにくいことだが、オーストラリアにおいて、その土地に住むこととその土地の者であることは等号でつながらず、「国民性」と「住民性」が別の概念として在している(種々の手続きの度に戸籍謄本と住民票がわかれていることを煩雑に感じていたが、やはり必要なのかもしれない)。日本でも近年挙がった問題のひとつに多重国籍があるが、(日本ではあくまで特殊な例として取り扱われたが)この国では全域に通底する問題として、制度や仕組みに類するものから、個人のアイデンティフィケーションという概念的な領域にまで及んでいる。

 

タスマニア島の中心的な港町・ホバートは、シドニーに続き2番目に英国が本格的に開拓した土地であり、実はその「正史」は長い。こじんまりとした港町のなかに、当時のイギリス軍の基地や倉庫、船着場が点在しており、過去の痕跡を残している。それより南には南極しかないタスマニアは、長い船旅の終着地点であり、捕鯨やアザラシ猟の拠点でもある。島の南側にある入り組んだ湾を入り、波の穏やかなホバートに着港することが、旅が安全に終わったことを彼らに告げ、どんなに心安らかにしただろうか(比するのもおこがましいが、ぼくも出張から帰って羽田空港に着陸すると、えらくホッとする。こんな東京でも悪くないなぁ、と思わせるのだ)。だからかホバートは肩肘の張らない等身大の町で、有り体に言ってしまえば地味の一言に尽きるのだが、サイズ感がちょうどいい。歩いても苦にならない距離感と、おしゃれなバーもなくはない、という塩梅が旅路を経て疲れた体には合うのだ。

 

ホバートの町並み

 

港から(東京の感覚で言うとそこそこ飛ばして)車で15分ほど走ると、MONA(Meseum of Old and New Art)という、オーストラリアの富豪デイヴィッド・ウォルシュが建てた私設美術館がある。「セックスと死」がテーマで、入口から深く深く、地下へと降りていく(壁面には地層がそのまま見える)螺旋状の階段はどこか遺伝子の起源を遡るようで、降り着いた場所には、薄暗いバーがある。展示室は、ここから始まる。展示は一風変わっていて、キャプションの類が一切ない。作品に近づくと、入場の際に渡されるスマホとヘッドフォンに自動的に作品やアーティストの説明が表示される。展示作品は多岐にわたり、何かと類別したがる合理主義者をあざ笑うかのように、時代や国、傾向を飲み込むように作品が並び、無名の作品が続くかと思えば、著名な作家がひょっこりと現れたりする。訪れたときに開催されていた企画展「THE MUSEUM OF EVERYTHING」は、小さく区切られた多数(10…いや、20近くあったと思う)の部屋に展示が細分化されている。部屋ごとに作風や作家でカテゴライズされており、展示方法はもちろんBGMまでもが自由にそれぞれ設定されている。まるで蜂の巣の小部屋をひとつ一つまわっているような感覚になる。

 

これらの展示を見てまわりながら、最初は「なんて自由で多様なアウトサイダー・アート展なのだろう」と喜んでいたのだが、小部屋が10を超えるあたりから、違和感を感じ始める。どの部屋もアウトサイダー・アートだらけで、インサイダー・アート(正規教育にもとづく美術作品)がないのだ。ひとつのベクトルに向かって生き方が統制されてきた日本(明治維新の西欧化しかり、戦後の経済発展しかり)ではいま「多様性」という言葉がキラキラした理想(これを使っておけばあまり批判されることがなく、その実あまり中身に言及できていない、便利ワードというやつだ。「本質」「未来」などもそれに類するだろう)のようにもてはやされているが、タスマニアではそれが前提的な状況を表す(しかも場合によってはネガティブなニュアンスを含む)単語でしかない。

 

イギリスから最果ての島まで来た軍兵、流刑囚、そしてアボリジニは、当時誰もが(本来インサイダーのイギリス人も含めて)西欧諸国から見た「アウトサイダー(部外者)」で、彼らの間には権力に紐づく主従関係はあったが、中心はなかった。オーストラリア(と言っても厳密には都市部に限られたが)は外交のなかでミドルな国家として自らを定義し、イギリスの属国として機能し、「アウトサイダーたち」から小さな「インサイダー」──言うなれば「ミドル・インサイダー」──に変質して帝国主義的な動きを試みた。現代、シドニーにはビルが所狭しと立ち並び、海岸沿いでは白人の初老夫婦がオープンテラスのカフェでビールを飲み、実に資本主義経済で彩られている。だがいっぽうでタスマニア島では、その最果て感がそうさせるのか、経済規模が小さいためか、さらには他国との向き合いをそこまで意識する必要がなかったためか、「ミドル・インサイダー」に変質せず、「アウトサイダーたち」のままで共生し続け、融和した。だからこそ、MONAにおいてもその所属を明示するキャプションが前面に出る必要がなかったのだ。作家名は、アメリカ人か、イギリス人か、アボリジニか、その者の出自を匂わせ、優劣を再び白日にさらそうとする。それは、この島にとってあまり都合のいいことではない。

 

ホバート空港にて。なんだかホッとしてしまった

 

「エリアフ・インバル」の名は芸名で、本名ではない。本当の名を、「エリアフ・ヨセフ」という。もし彼がユダヤ人でなかったら、より著名なオーケストラのポストに着いていたのではないか。その疑問を抱かなくもないが、だがそれは82歳となった現在の彼にとってあまり意味のあるものではないだろう。彼が指揮者として活躍し始めた20世紀後半は欧米資本主義の発展と重なっていたし、もしかしたらだからこそ、(あえてその呼び方を試みれば)米国の資本主義・民主主義的属国だった(?)日本で多く活躍することも、そこでマーラーの交響曲を全曲録音することも、できたのかもしれない。いずれにしろその意味では、ヨセフはインバルへと名を代え、アウトサイダーからミドル・インサイダーに変質したのだろうし、それと同時に、インサイダーにはなれなかったのだろう。

 

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