企画展 - 2018.03.24

『手繰り寄せる地域鑑賞』vol.1 対馬の間合いと現代のストーリーテラー 後編

3つの島とワールドビルディング

現代の対馬において垣間見られる「曖昧さ」は、どのように形成されたのだろうか。歴史的な経緯を、誤読してみたい。

国道382号を、車で北上する。厳原港の近くで借りたレンタカーが軽自動車だったせいか、エンジン音は島の起伏に対し苦しそうに鳴る。対馬は豊かなリアス式海岸の浅茅湾(あそうわん)を中心に、くびれのように上下にわかれている。島を成している──つまり海面から顔を出しているのはほとんどが山で、必然、道は険しいのだ。もっとも古い対馬に関しての記述、『魏志』倭人伝にもそのことは書かれており、地政が脈々と古代から現代に受け継がれていることを教えてくれる。烏帽子岳展望台から浅茅湾を一望しながら、時空を超えた想像を楽しませてくれるこの文章を引用したい。 

始めて一海を度(わた)る千余里。対馬国に至る。その大官を卑狗(ひく)と曰ひ、副を卑奴母離(ひなもり)と曰ふ。居る所、絶島。方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(こみち)のごとし。千余戸あり。良田無く、海物を食つて自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。

鳥帽子岳から浅茅湾を一望する

 

この一文は対馬の避けられない地政学的条件も示しており、その後の波乱な歴史を予言している。波が穏やかな浅茅湾は軍事的な拠点として古代より重宝され、日本はもちろん、朝鮮やロシア、イギリスなど歴史的に関係した各国が欲しがった。時代ごとに国交における緊張関係を示してきたこの湾だが、昨今ではシーカヤックの絶好のスポットとして人気らしいから、現代は平和なのかもしれない。

話を『魏志』に戻すと、この一文が書かれた3世紀末には少なくとも朝鮮半島と交流があり、以降、邪馬台国、大和国、鎌倉幕府、豊臣秀吉、江戸幕府、日本政府と、変わりゆく時代の政権における、対朝鮮半島の窓口として機能してきた。と同時に、(有名なものを挙げれば)、元寇から守ったと思えば倭寇として攻め、秀吉の朝鮮出兵の拠点として機能すれば江戸時代には朝鮮通信使を歓迎・案内する大使として勤め、朝鮮に対してオセロのように見解を切り替える「中央」の代弁者でもあり続けた。ときの権力者は自らの意見を推し進めるのみだが、たかだか49.5キロメートルしか離れていない朝鮮と(その距離は、東京から金沢八景島までとほぼ変わらない)、古代より関係を構築してきた対馬からすると、政権の言う通りに振り回されながら伝書鳩のように朝鮮に言伝していては、国交は易く緊張関係となり、拠点として優れた条件のリアス式海岸を多く持つ対馬が、占拠されてしまう。

そこで彼らは、「曖昧さ」をインストールする。例えば日露戦争の際には、不凍港を求めたロシアから侵攻を受けていたにもかかわらず、漂着したロシア水兵を島の農婦が保護した。さらに遡れば、江戸時代に朝鮮通信使の窓口となった際には、国書を偽造し朝鮮と江戸幕府、双方にとって勝手のいい伝え方をすることで、両者をとりなした。

「中央(ときの政権)」と「中央(日本地図における中心)」から見た端、つまり終(つい)の島であるこの島は、その距離感ゆえに起きた「中央」との立場や考えの違いを巧みにいかし曖昧にすることで、直接的な"自分たち"とロシアや朝鮮との摩擦を減らし、背負わざるをえなかった地政の視座を乗りこなしてきた。中央から見た「終島(つしま)」と、国交国から見た「津=船着き場」としての「津島(つしま)」といった二つの視座を両義的に抱えながら、「対馬」は曖昧にたゆたうてきたのだ。 

 

 

お菓子と日用品と、あと何か

昭和初期につくられた豊砲台の跡地。対馬にはこのような砲台跡地が多く残されている


「朝鮮通信使」は、2017年に「世界の記憶」に登録された。世界の記憶とは、歴史的に意義のある記録物を保全し公開することを目的にユネスコによって設立されたもので、「アンネの日記」や「ベートーヴェンの交響曲第9番自筆楽譜」などが代表的なものに挙げられる。ここまでを総括し、「対馬」篇の最後として、朝鮮通信使が2017年に登録された意味について、歴史と現代を接続し、誤読を試みたい。

世界の記憶は、登録にあたりその歴史的な価値だけでなく、如何に後世に意味のあるものとして存続し得るか、という点が重要視される(同じくユネスコの事業である世界遺産にも同様の視点がある。奇しくも同じ長崎県で登録推薦された長崎の教会群は、先の視点が足りなかったために2015年に登録を断念せざるを得なかったが、禁教の過去を含めた「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として再度申請され、2018年夏に登録される見込みだ)。朝鮮通信使は、室町時代には倭寇の侵攻を抑えるため、江戸時代には豊臣の朝鮮出兵直後の国交回復のため、その和平的な交流の象徴として機能した点に価値がある。

現代の環日本海において(そしてもちろん、数珠つなぎに世界各国においても)諸国の緊張関係は高まっている。挑発し合う北朝鮮と米国に挟まれ、日本は国防を強化する。韓国は平壌オリンピックを機に北朝鮮と距離を縮め、日本との慰安婦問題を新たなステージに進めようとした。「津島」には毎日多くの韓国人観光客が訪れ、彼らは八幡神社で自撮り棒をかざし、缶ビールを川端で飲む。「中央」に対し「終島」の人々は、戸惑いを感じながらも彼らと共存を図ろうとしている。その間で「対馬」の居酒屋に貼られた張り紙は、多様な解釈を受け入れる緩さを維持し続けている。彼らが歴史のなかで培ってきた「曖昧さ」が、緊張関係のなかでいまなお必要とされているのだ。張り紙に見られる個人レベルでのこうした営みは、生きた文化として様々な感受や思考を、往来する住民、そして観光客に与えるだろう。朝鮮通信使の「世界の記憶」登録は、この国交を必要とした状況や、交流がもたらしたものを振り返り、現代に置き換えて考える機会を提供する。35万人の朝鮮通信使は、何を与え、何を持ち帰るのだろうか、と。

最後に、江戸時代の儒学者として対馬藩に仕え、朝鮮との国交の窓口として活躍した雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)が、朝鮮外交の心得として著した『交隣提醒(こうりんていせい)』の最終項、「誠信の交わり」という章を紹介する。未来につながる世界の記憶のひとつとして、いま一度読み直したい言葉だ。

朝鮮交接の儀は、第一に人情・事勢を知り候事、肝要にて候 互いに欺かず争わず、真実を以て交わり候を、誠信とは申し候

遣唐使を乗せた船が通行するために拓かれた小船越の様子。日本最古の寺院とされる梅林時が近くにある


この島に、「ソトガワ」はない。対馬の北端からは韓国の島影がぼんやりと見え、スマートフォンを開けば韓国のwifiがつながる。双眼鏡を覗けば、高層のビル群を見ることもできる。(遠く海の向こうにある)異国でも(地続きに近接する)隣国でもない、独特の距離感が対馬にはある。日本の輪郭線に爪先立ちすれば、もう薄ぼんやりと「向こう側」が見え、そこがもう日本だけのものでないことをぼくは知る。さらに、日常に視線を落とせば境界線などはなく、ちがう言葉、ちがう食べ物、ちがう文化が重なり合って、溶け出している。「ソトガワ」をつくっているのは、もしかしたらぼくたちの意識だけなのかもしれない。 

 

韓国展望所から釜山を見やる。肉眼ではうっすらと島影が確認できた

 

「韓国展望所」にて。「KT」というwifi表記になる

 

奇しくも平成の市町村大合併は、その形式上の輪郭線と文化的なそれとのズレを露見させ、「ソトガワ」の意味を問い直す機会を与えてくれることになったのだが、その話は、また別の機会に譲りたいと思う。