企画展 - 2019.07.31
『手繰り寄せる地域鑑賞』 vol.13 花蓮というマイクロクライメイト(微気候)
台北から台湾鉄道で2時間ほど東海岸を南下すると、花蓮[ホアーリエン]という街に着く。台中、台南、高雄と比較的賑わう西海岸に比べ自然の残る東側の中では、もっとも大きい街だ。それでも、実は日本人とのつながりも深い街なのにもかかわらず、あまり知られてはいない。19世紀末から終戦まで続いた日本統治時代には、多くの日本人移民が花蓮港から上陸し、輸出の拠点となった(大分県が誇る杉は、花蓮から持ち込まれたものだ)。日本人は移民村を最初にこの花蓮に興し(現在も「豊田」など日本らしさを残した地名が残っている)、鉄道の整備、農地の開拓、林業の発展といった街の基礎づくりに携わった。技術を持った彼らは、北部はタロコ族、南はアミ族といった原住民や、中国東北部から南下し東南アジアに広がった漢民族の客家を労働力として“採用”し、この街を”文明化”(それは消費社会、経済至上主義の浸透とも言い換えられる)したのだ(そこには、タロコ族と日本兵双方の集団殺害を招いた新城事件に代表される軋轢ももちろんあった)。余談だが、敗戦後に日本人が引き上げたのちに、これらの土地と技術を客家は引き継いだ。そのため花蓮の客家文化は、日本文化との融合が見られるのが特徴で、旅のなかで食べた客家料理は(濃い味付けと油による主張が強い中華料理と比べて)下味と淡い仕上げによる繊細さを持ち併せていて、花蓮市街で食べる“日本料理”以上に、胃の疲れた旅の半ばのぼくをホッとさせる。
7月27日から、『パラダイス・ネクスト』という映画が全国で公開されている。本作の大半は花蓮で撮影されており、どこか懐かしさの残る街並み(という表現も、昭和を記憶している世代に限られてしまうだろう。「日本は変わった」という声をぼくは台北のスナックで聞いた)と豊かな自然のなかで、主演の妻夫木聡と豊川悦司が過去を自責し、向き合う作品だ。ひょんなことからぼくは、花蓮で行われた舞台挨拶に同行させていただく機会を得、それに併せて街を巡った。花蓮の過去を学び現在を知ることは、郷愁豊かなサスペンス・ムービーの本作に、そして特に印象的なラストシーン(畏怖すべき大きな大きな自然と、そこで共生と衝突を交差させる人間たち)に、深みを持たせてくれる。見知ったことを紹介していきたい。
日本人の移民村
賀田金三郎研究所の播磨賢治
花蓮から30キロほど南下すると、鳳林[フォンリン]というエリアがある。日本統治時代は「林田村」と呼ばれた移民村で、当時開拓された畑に囲まれ、現在では需要の少なくなりつつあるビンロウが、まばらに植樹されている。取り残されたような、でもどこか懐かしい風景だ。日本人は463人ほどと少なかったため、農地開墾の労働力として、客家が補われた。定住地を求めていた彼らはうまく日本人たちと融合し、農業を、生活を、民芸を学んでいった。当時建てられた林田神社は、終戦後に中華民国の“日本の痕跡を消す動き”に巻き込まれ、いまは寺院になっている。その結果、鳥居があったり墓地があったりとちぐはぐな印象は、まるで神仏習合のちがう可能性を見ているようで、記憶や体感を超えた潜在的な郷愁を誘う。
近くにある賀田村の表通り沿いには、播磨賢治という日本人の方が館長を務める賀田金三郎研究所がある。山口県萩市出身の賀田は、統治時代に村の開拓をリードし、賀田製糖所や台湾日日新報、台湾銀行などの事業を興すことで、現代台湾社会の基礎づくりに貢献した。研究所では、賀田の写真や資料、当時の日本人移民の生活ぶりが紹介されている。「台湾」と言われて思い浮かべるのはやはり台北であり、次いで台中や台南、高雄などが並ぶ。つまり、島の西側だ。日本人がはじめて移民村を拓いた東側の土地は、現代において、台湾を訪れる多くの日本人観光客にあまり注目されないままひっそりと存在している。研究所の館長・播磨賢治は「日本人にこそ、この資料館を訪れてほしい」と言った。その言葉が、帰り道の頭のなかでリフレインしていた。
客家というやわらかい存在
今回の旅で通訳を務めてくれた同行者に聞いたところ、「客」という漢字には、2つの意味があると言う。ひとつは、「ゲスト」として丁重に招くべき来訪者という意。またもうひとつは、(あるひとつの主観からのみ見たときの)「外部の者」を卑下する意。漢から南下し台湾に広がった客家は常に第三者であり、主に後者のニュアンスで「客」という漢字を解釈された。
旅をしながら、様々な人に「客家とは?」という質問をした。多くの人が、①我慢強く勤勉である、②義や仁を重んじる、③一方で利己的、④商売に長けている、といった特徴を挙げた(なかには、これらの特徴を持ちながら排他的に扱われてきた経緯から「アジアのユダヤ人」と称する人もいた)。その土地土地の文化(日本人や原住民、本省人)と共生し馴染んだいっぽうで、こういった確固たるアイデンティティを持っている。網戸のように、固い枠組みを持ちながら風をこちら側からあちら側へと通す、この通気性豊かな民族性はなんであろうか! 島国に住み、言語と文化を固有し、多様性を謳いながら閉鎖的な細分化を招いている、日本人とのちがいたるやなんであろうか!
台北の松山空港に飛んだのはちょうど2019年4月30日で、平成最後の日の機内アナウンスでは、新しい年号「令和」の英訳である「beautiful harmony」が実現せんことを願われていた。ぼくはそれを、日本とも台湾とも定まらない場所で聞いていた。着陸して天皇陛下退位の儀をyoutubeで見ると、無防備に涙が出そうになり、ぼくはこの自身のなかに息づく日本人性に気付いた。個人的なつながりのない老人の言葉に感動し、紛れもなく自分が日本人であることを自覚した。天皇明仁と美智子皇后は沖縄や石巻、日本中を訪問し旅をしたが、それは(文字通りに膝をついて)耕し、凝り固まった日本人性をやわらかくし再起することにつながったのではないだろうか。
花蓮の開発計画
花蓮に新しくできたショッピングモールとスターバックスコーヒー
花蓮の中心街から5分ほどクルマで海岸沿いを南に走ると、突如、周囲の牧歌的な様相に似つかわしくない大きな箱が現れる。ゲームの世界から切り取られたようなモザイクの外装だ。中はショッピングモールで、映画館、ショッピング、ゲームセンター、フードコートといったエンターテインメントの機能を階ごとに有している。正面玄関の脇にはスターバックスコーヒーがあって、白いペンキで塗られた複数のコンテナが交差するように積み重ねられている(例のロゴ看板がなければ、それが店舗だとはまず気付かない)。開放的に広くスペースが取られることの多い同ブランド店舗だが、ここは先のような構造上、閉鎖的な個室のようなスペース(つまりコンテナの端)がいくつも見られる。花蓮は貿易港として栄え、伐採された杉が九州へと黒潮に乗って運ばれ、漁港としても賑わった。世界の様々を巡り行き来したコンテナがここ花蓮で交差し出会う。花蓮を中心に世界地図を書き直す視座が、この店舗で提示されている。設計は、隈研吾だそうだ。
ショッピングモールの入口にはジオラマがあり、この一帯で壮大なエリア開発が練られており、大きな箱がそのはじまりに過ぎないことを告げている。ホテル、コンサートホール、映画の撮影スタジオ、マンション……といった施設が予定されていた。特に居住区を主とする複合施設「HUILANWAN SUNRISE VILLAGE」が興味深い。設計はビャルケ・インゲルス。三角形の建物が山脈のように折り重なって構成されており、遠景の山々と複層している。自然との調和を目指す建築は多く見られるが、そのことは同時に建築が自然と異なることをも示唆している。だがこの施設は“建築”の前提を一度崩し、極力自然に具体的な形を似せることで、エリア一帯にあった風や水の流れをつくり、太陽の通り道をデザインする。それらは戦後に進められた経済至上の開発と異なることはもちろん、自然環境を連想させる有機的な建築群とも異なる。自然そのものに重なろうとしている。
開発を進める「Taiwan Innovation Development Corp.(TIDC)」の董事長・邱復生(チョウ・フーシェン)に話を聞くと、彼の都市開発はタオイズムに端緒を持つと言う。元来の大地(海、山、大気)に敬意を払い、自然(水の流れ、植物、動物)を沿わせ、そのなかに文明(人間とその生活)を交差させることで、環境に都市を複層化させる。微気候[マイクロ・クライメイト]を織りなしている。 それは”共生”という人間の立場からの一方的な言葉ではなく、尊重し内包されながら、環の一端としてその全体に関わろうとしているのだ。邱は、その壮大な視野を示しながら、ジオラマをひとつずつ指差し、イタズラっぽい顔で笑う。
いま日本で、これだけの規模で都市を開発し、厳かな思想と高らかな挑戦を実践できる場所は少ない。2020年のオリンピックに向かう東京は既に熟れ、近視眼的な展望のオセロゲームか、わずかな隙間を縫うような”改善”ばかりが成されている。日本人は、大きなビジョンを持ちにくい環境に生きている。
邱復生
花蓮から台北に戻るMRTのなかで、すっかり疲れ切ったぼくらは眠りこけた。トンネルの中を走るゴオォという音と、抜けたときにまぶたにかかる淡い光を交互に感じながら、ぼくは邱が客家出身だと聞いたことをふと思い出した。山を超え国境を超え、確固としたものを胸に抱きながら、するりと抜けて進んで行く。行き着いたその地の環世界に頭を垂れて、また一部へと内包される。窮屈な日本人のぼくらは、”日本”をやわらかく深く、残しながら広げることができるのではないだろうか。