企画展 - 2018.10.29
『手繰り寄せる地域鑑賞』 vol.7 栃木の白い箱で誘発される、外れの天地予報 前編
空と君のあいだにある複数の視座
高知、大分と、プレートテクトニクスやその上に成り立つ文化の形成、歴史の深さを見てきた。足元に広がる地面の先に/その奥には、遠大な創造の世界が広がっていた。そしてそうなると、次に気になり出すのが天である。視線を下に見やり考察してきたものを、今度は上に向け、空に、宇宙に関心を向けていこう。
そう感じていた矢先に、栃木県立美術館で「ウェザーリポート」なる展覧会が開催されていることをぼくは知った。「ウェザーリポート」と言えば、80年代生まれのぼくはマンガ「ジョジョの奇妙な冒険」第6章に出てくるキャラクター(わりかし好きだった)がまず浮かび、派生的にその元となったジャズ・グループが次に浮かぶ。BUMP OF CHIKENにも同名の曲がある。
脱線しそうなので、結論から書こう。素晴らしい展覧会だった。正直に述べると、考察が“天候”に留まって、太陽や雨や雲をモチーフとする作品が並ぶ……という表面的な展示になる可能性を懸念していなかったわけではないが、それは杞憂に過ぎなかったし、それどころか試みられていた思考実験は実に挑戦的な内容だった。
クラウディオス・プトレマイオス コスモグラフィア 1482 個人蔵
展覧会は、「コスモグラフィア(宇宙図)」をその発端にしている。世界地図を中心に神々が風を吹き込んでいるクラウディオス・プトレマイオス《コスモグラフィア》(1482)に代表されるように、コスモグラフィアは中世から人々の想像を掻き立ててきた。これを美術に導入して客観視することで、あるいは、地面に対し垂直に自立した壁にかけられている絵画として捉え直すことで、そこに天と地を共在させる「ネオ・コスモグラフィア」を提案している。会場の前半で解説されている通り、現代において「風景」を意味する「landscape」は、16世紀末にオランダ語で「風景画」という意味あいで用いられたのを初としている。視野に広がる自然[nature]を切り取って客観視し、天と地をひとつの視野/絵画のなかに保存したのを、風景[landscape]とした(そして風景画は壁に掛けられる)。つまり、見慣れている風景画もまた、ネオ・コスモグラフィアであると解釈が可能なのだ。
文字通り「天地」を表現したものだけが、ネオ・コスモグラフィアに該当するのではない。その意味を拡張してみよう。ヨーゼフ・ボイスは《芸術=資本》(1979)において、ホモ・サピエンス(ボイス本人)とマストドン(の標本)を並べて撮影し、数千年に及ぶ遠大な時間の奥行きがそこにあることを示している。先に挙げた《コスモグラフィア》は、創造された天地という世界認識をもって、神話と現実を接木するものとしてネオ・コスモグラフィアに引用されている。ロバート・スミッソン《スパイラル・ジェッティ》(1970)の映像では、ヘリコプターから作品を見下ろしながら、水面に反射する太陽を執拗に映している。日高理恵子は「樹を見上げて」シリーズに取り組むことで、たしかにその視座として地面を、その下に広がる力強い根を想像させている。この2作家は、作品に描かれていない視野[landscape]に天(ロバート・スミッソン)や地(日高理恵子)を拡張し、壁に掛けることで、その拡張された不可視の視座を鑑賞者の目線と重ねている。
集められた作品の一つひとつがネオ・コスモグラフィアの確立に向けて意味を持っており、天と地を併せ見ることで誤配の視野を広げようとする試論が、この展覧会では壮大に展開されている(実に丁寧に、各出品作に役割を与えているキュレーターに、拍手を贈りたい)。
ロバート・スミッソン スパイラル・ジェッティ 1970 Courtesy of the Holt-Smithson Foundation and Electronic Arts intermix, New York. 協力=東京国立近代美術館
日高理恵子 樹を見上げてⅥ 1992 水戸芸術館蔵 撮影=加藤健
後編に続く
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