アトリエ - 2018.02.13

「湯のある国」雲仙温泉の昔話

⻑い夏も終わり、涼しい風が吹き始めた9月。
⻑崎県の雲仙に共同浴場があることを教えてもらっ た私は車を走らせました。
赤瓦で統一された温泉街につき車を降りると、ツンと鼻につく硫⻩の匂いが町中に広がっていました。

 

 

共同浴場の軒先では二人の女性が折り紙に夢中で、その姿が可愛らしく、ワクワクして挨拶をしました。 
真っ⻘なエプロンがよく似合う、小柄な女性がタツコさん。
隣に座る凛とした風格の白髪のおば あちゃんがタキノさん。
ふたりは代々この共同浴場を管理してきた湯守です。私もおしゃべりに混ぜてもらい、やがて雲仙の昔話が始まりました。 

 

 

戦時中、雲仙普賢岳はその地理的特徴から見張台があり、通信部隊が多く配属されていました。 
同時に麓のホテルは日本軍に接収され、病舎として利用されました。
そして戦後米軍に引き渡されると、保養地として使われるようになりました。
米兵の元には沢山の物資が届き、その中にはシーツや毛布もありました。
それらは定期的に新しくなるため、日本人は捨てられた布団を部屋 いっぱいになるほど貰いました。
タツコさんは「あの頃のアメリカは進んどってね。そりゃあたくさん貰って、それで物々交換までしたとって!」と甲高い声で笑いました。 
その後米軍が撤退し、雲仙の町は全国からの観光客で溢れました。
チャーターバスの運転手などは近くの家を貸し切り、ぎゅうぎゅう詰めで雑魚寝をして仕事を続けたそうです。

 

 

雲仙地獄から続く大通りには多くの店が軒を連ね、夜の街はそれは華やかだったようです。 
商人たちは儲けた金をしまいきれず、店先に置かれた一斗缶にお札を詰めこみました。
そして溢れる百円札を踏みつけなけながらお客の相手をしたといいます。
「こうして踏みよったとよ!」タキノさんとタツコさん、それにお客さんまで加わって、皆で大きく足踏みをします。
誰もが昨日のことのように意気揚々と話し、懐かしい気持ちになりました。なんと賑やかで力強い時代だったのか、平成生まれの私には映画のような話でした。 
私たちの騒がしいおしゃべりを聞きつけて、湯上がりの常連おじいちゃんも話に加わりました。 
一斗缶の真似をしていたタツコさんが「おじいちゃん、あの頃はすごかったやろ!?こうして踏みよったんやろ?」と聞くと、おじいちゃんもすかさず「そうそう!こうして踏みよった!あの頃は大変やったー!」と自慢げに足を上げました。

 

 

私はその時ある事に気がづきました。
当時一斗缶を目の前で見ていたのは、タキノさんと常連のおじいちゃん、どちらも90歳を超えたふたりだけでした。
他の人は伝え聞いたか、生きていても幼少の頃の出来事だったはずです。
それでも 皆、自分が経験したかのように楽しそうに話していたのでした。
米兵の話に至ってはタキノさんが雲仙に戻る前の話で、知るはずがありませんでした。
おじいちゃんが小学生の時に、茂みに消えていくアベック米兵を見たというのが一番古い記憶でした。
「あの頃はすーごかったー!!」というタツコさんの甲高い声は、私の耳に今でも強く残っています。]